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「今はもう別に何がしたいというものはない」と、わたしが言った。
すると、その人は言った。
「もう、やりたいことはやったからでしょう?」
なるほど。
その通り。
かと言って、今はやる気がなく生きた屍というわけではなく、十分満足しているのだ。
あとはそのまま、すーーっとニコニコして生きていけたらいい。
わたしはまだまだ平均寿命より20歳も若いのに、皆さんには活力がないと思われることだろう。
だが、満足していたら、別に活力がなくてもいいと思う。
イキイキ、やたら元気に張り切って頑張らないといなければならないのか?
誰のために?
愛する家族たちはいて、こころの拠り所にしているが、今は見守るスタンスで関わっている。
いずれ、見守られる時期が来る。

頑張らない、頑張れない自分がそれで良ければ良いのでは?
活発な毎日を期待されるとすると、誰に期待されるのだろう?
静かに安らいで生活しているのは、わたしの年齢では理想的模範的ではないのかも知れない。
模範って、誰のために?
自分で勝手に理想像を作り上げて、へんに抵抗している。
迷惑をかけなければ、自分の満足いくようなスタンスで生きたい。
自分の理想像そのものが変化しているのだろう。
出力を減少、下げて行きたい。
世間(メディア)では、下げるな下げるなと圧をかけてくる(ように感じる)。

暗いニュースや災害特集が続く。
一瞬で積み上げてきたものが失われた絶望感、喪失感、虚無感は想像を絶する。

今日は朝から寒い雨。
食欲がないのと同様に、書きたくなる気力というものも、わたしの心身健康のバロメーターのようだ。
どんな状況であれ、生きていかなければならない。
また時間が変われば気も晴れる。気が変わる。

暗いブログ記事はアップしない方針の人もいる。
元気な時の自分しか表に出さないようだ。
読む人に与えるものを想像する、忖度。
マイナスの自分は出さない。
ゴミを散らかしては迷惑。
それもまたその人のスタンス。
人の数だけ考え方、感じ方がある。  


わたしより歳上のその方は、わたしより早く歳を取る。 
そんな当たり前のことを事実として感じた。
そして、どんな元気な人も、どんな頭の良い人も、歳を取る外賣盒批發
これは避けられない。
特に、元々、わたしなんかより雲泥の差で頭脳が優れている人は、ほんの少しでもわたし寄りの老化を感じると、不思議な気になる。

父より11年若い母が老年の父のことをよく言っていた。
「あんなに賢かったお父ちゃんが、最近、前ほど賢くない」
前ほど賢くなくなった父でも、十分、その時の母より賢かったが。
父も父方祖母も、アタマは最期までクリアだった。
わたしもそうありたいが、体が言うことを効かなくなると、アタマだけ冴えていても辛いだけ。
アタマと体は同じ足並みで衰えていくほうが幸せだ。

で。
知人は、わたしの父と母の違いぐらい、わたしとは頭脳に雲泥の差がある招牌設計
そうなのだが、やはり寄る年並みには勝てない。
わたしが中学生の時に、家族全員で(同時、麻雀を覚えたばかりの兄、主導のもと)麻雀を一斉に始めた。(ただし母、除く。父、兄、姉、わたし)
その時に、当時50歳を超えていた父の覚えが悪かったことを記憶している。
わたしたち子供はスイスイ覚えるのだが、父はモタモタ。
チョンボも父にはわたしたちは寛容。
わたしは、父を頭脳明晰だと尊敬していたが、あれれ?新しいことは、若い人のほうが覚え易いのだと感じた。
歳を取ると、頭がカチコチになりやすい。
たとえ、頭脳明晰の50歳でも、普通の中高生には負けるようだ。
仕方ない。
生物は生まれてきたからには、その日から成長もするし、衰えもする。
避けられない宿命である。

というわけで、尊敬していたダントツ学業優秀の知人が、父同様に、ピーク時よりダウンしていた。
わたしは、ピークが12歳の時(人生のスタート地点あたり)だから、それから半世紀以上も経ちダウンが著しいけれど。

そして、かつて一緒に運動していた仲間だった知人だが、運動機能的にも衰えを感じた。
その人は、家庭の事情で時間が取れないこともあり、スポーツを全くしなくなったようなので、印象的にガクンと若さがなくなっていた。
どちらかというと、趣味は足腰を動かさない、アタマや感性を使うものなのだからか。
やはり、ウォーキングでもよいので、軽い運動は日常に取り入れたほうがいいと思った。
わたしも渋らず機会があれば、参加したほうが自分のためになりそうだ。

老けて見えたのは、ちょうど、歳を急に取る年齢に差し掛かっていたのかも知れない。
わたしだって、何年も会わなかった人には、同様のことを思われることだろう。
皆んな同じ。
誰だって歳を取って行く。
自覚症状がある場合もあるが、人の姿を見て、この人、歳取ったなあと感じることもある月餅盒
何度も言うようだが、当たり前なのだけれど。

ジタバタあがいても仕方ない。
落ち込むなどもってのほか。
年齢と共にやってくる変化を受け入れると、こころが落ち着く。
歳を取る感覚に慣れてくる。
アンチエイジングの人から見ると、だから老けるんだ!と叱咤されそうだが。
なんで自然の流れ、真理に逆らわなければならないのか、わからない。  


清めようとするのだろ

2024年01月21日

知人で、過去の行いを浄化しようとして仏門に入った人がいる。
人生の後半のある時期、思い立ったそうだ。
かなり強引な手法で、のし上がり成功を納めた人だが、事あるごとに、世の中に寄付をしたりして、清めようと頑張っておられる。
アーリーリタイアをして坐禅に励むブロガーさんもいるが、坐禅の境地とはちょっと毛色が違うv 面

人生、終盤戦に入り、あの世へ行く前の準備として、自分の垢や埃、汚れを落として、綺麗に身を清めようとするのだろうか。
そういう意味では、老後、何もすることがない退屈な人には朗報だ。
かなり忙しい。
ちょっとやそっとでは清められない。
今、わたしのアタマに浮かぶのは、書道のお稽古を兼ねて、写経。
単なるアイデアラッシュだけで、実際に実践するかどうかは別として。
仮に病気で体調が優れなくても、写経をしている時間だけは、身体の不調を忘れるかも黑頭粉刺清除
逆に体調不良なら何もする意欲がなくなる可能性も大だ。
(どっちやねん)

話は脱線に脱線を重ねるが、
とりあえず、老後は、自分の汚れを落とすため、仏門研究を一つの課題にしよう去暗瘡印
て、誰も興味ないと思うけれど。  


「憧れる」と「羨ましい」は違う。
わたし次元の解釈では、うんと手が届かない高いところにあるものに対しては「憧れる」。
ひょっとして手が届くかも知れないものが「羨ましい」電動牙刷比較
隣の芝生。
どんぐりの背比べで、嫉妬する。

超絶的に高度な、異次元のものに対して、羨ましいと思う人は、ある意味スゴイ。
わたしなどは、カスリもしない。
ほほう〜、と、天を見上げる。
羨ましがるどころか、「憧れるのをやめましょう」という大谷翔平。
やはり偉人は別世界。

自分の能力を無限大だと捉えている。
だが、天才にも頭打ちは必ず訪れる。
類を見ない天才領域で、活発に活動している時に、ポテンシャル全ての能力を出し切る。
そんな人は、ごろごろそこらへんには居ない。

既存枠から抜け出し、全く新しい概念を生み出す。
ただし、分野によっては認められるかどうかは、時代にもよる。
歴史を振り返ると、精神病院に放り込まれたり、死罪になったりすることもある箍牙


趣味仲間Aに、問われた。
「表現力って何?」
すごく良い質問だったので、わたしは前のめりになり、かぶり付くように熱弁をふるった。
、、、が、、、Aには全く通じなかった。
そもそもAとわたしは、別の次元で趣味に取り組んでいる。
わたしは、それを十分理解しているのだが、Aに説明しても、きっと理解出来ないだろう。
というか、わたしは、究極のホンネを打ち明けない。
いくらホンネでも言ってよいことと、よくないことがある。
ホンネなど、言ってしまえば、相手を傷つけ、一瞬で崩壊する。
口にしないほうがよいホンネは言わないほうが、日常生活を送るのには、支障をきたさない。
生き易い。
わたしは、あえて生き辛いことは選ばない。避けて通る。
片目をつぶって生きる。
少し曇ったメガネをかける。
クリアな目で見ると、見なくてもよいものも見えてしまう滅蚤
何ごとも表裏一体。
一方だけを追求すると破綻する。
  


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